サヨナラの封蝋印

お邪魔します、と彼はいつものように律儀にそう言ってあたしの部屋に上がってきた。

「今日も誰もいないのか」

「あたしが寝静まった後しか帰ってこないよ。もしかしたら今日もお互い不倫相手の家に行って帰ってこないかもね。で、今回のは?」

「あァ、ちゃんと持ってきたって」

あたしは其奴…取引屋から紙袋を受け取り中身を確認すると、それと引き換えに封筒に入った金を渡す。

「これ、ちゃんとお金取ってる?」

「高校生に正規の額で請求できるかよ」

「別にそんなの気にしなくても、お金くらいあるのに」

彼とは、繁華街の1本裏道で出逢った。

夏の空の青さとは対照的に、彼のいる其処は誰も気付かないような暗闇。

あたしは日頃の鬱屈さから逃げるために、その暗闇の中に足を踏み入れた。

煌びやかな繁華街にはおおよそ似つかわない、ただの着崩しただけの制服という格好でうろついて居たあたしに、そんな格好では簡単に補導されるぞと声を掛けてきたのが彼だった。

その日からちょっと年上に見えそうな服を着て、煙草の吸い方も、薬の使い方も、全部全部彼から教わった。

あたしの家が深夜になっても親の帰らない仮面家族だと知った時、繁華街での受け渡しは流石に危ないから自宅まで持って行ってやる、と、あたしの家まで”それ”を運んできてくれるようになってもう数ヶ月が経つ。

あたしは自分の家に住むあの大人達を、親だとは認識していない。

親らしいことなんて何一つしてもらったことがないし、毎日毎日お互いの不倫相手の元に通っては、深夜遅くまで放置されるか、数日帰ってこないことだってざらにあった。

最後に直接顔を合わせたのはいつだっけ、と思い出すことすらももう面倒。

一応養わなければいけないという自覚はあるのか、生活費だ食事費だと自宅を出るたびにあの人達が机の上に置いていくせいで、金には困っていなかった。

高校を出たらこんなくだらない家なんて出て行ってやろうと、食事や生活費は適当に切り詰めてこっそり貯めておいている。

その貯金の中から少しずつ、彼に渡すための金を工面していた。

あたしは早速机の中からシーリングスタンプの炉と溶解用のスプーンを取り出し、彼からもらったばかりの白い粉を一匙入れて熱した。

普段は趣味のために使っている器具だけど、こういう時にも使えると気付いてからはずっと愛用している。

便利なものだ。

「俺、いっつも思うんだけど」

あたしが粉を熱しているのを見ながら、彼が口を開く。

「その文具的なやつでヤク熱してんの、すげーアンバランスなんだけど。いい子ちゃんかよ」

「何か背徳的でいいじゃん?こうすれば合法的に熱するための道具を手に入れられるわけだし。あたしは別に使えれば何だっていいし」

一応、学校では優等生で通ってるしね。

そう言えば、お前が優等生ねェ、と彼は馬鹿にしたように笑った。

「俺は普通に腕に打った方がトべんだけどな」

「女子高生に注射器勧めるー?傷跡残るし、なくなったら煙草で代用利かせられるからあたしは吸う方がいーの」

「そ。ならお好きにどーぞ」

あたしが薬に溺れている間、彼は黙ってベッドに腰かけたままスマホを弄っている。

妙に頭が冴えるような感覚の後に、ふわふわと夢の中にでもいるような浮ついた気分になって、あたしはベッドに座っている彼の横に腰かけた。

「もういいの」

「んー、もう気持ちい」

「久しぶりだったからすげー良さそうじゃん」

彼はふ、と笑ってあたしをベッドに押し倒す。

出逢った頃は無表情を崩さなかった彼なのに、最近は少しずつ色々な表情を見せてくれるようになってきた。

彼から教えてもらったのは、煙草や薬だけじゃない。

あたしを本当の意味で女にしてくれたのも、彼だった。

ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、彼はものすごく優しくあたしを抱く。

彼の優しい手が、人の愛を知らないあたしを酷く安心させるということに、彼は気付いているのだろうか。

ただの都合のいい欲望の捌け口として利用されているだけなのかもしれない。

只、それでも構わない。

彼にされるがままに、薬と快感との欲に溺れる。

それはあたしの世界でたった一つの救いだった。

 

 

その日、家に来る予定だった彼は予定の時間を過ぎても来なかった。

何だか嫌な予感がして、最初に出逢ったあの繁華街の裏通りへと足を向けた。

普段はシンとしている裏通りには怒声が飛び交っていて、その中心には彼の姿があった。

腕を振り上げている相手の前に思わず飛び出す、そうすれば頬への痛みと共に目の前がチカチカと明滅した。

壁に向かって吹っ飛ばされたせいで少し遅れてきた背中への激痛に蹲って呻いていると、少しの喧騒の後に裏通りは元の静けさを取り戻し、あたしを見下ろす彼の陰が掛かった。

「馬鹿だなァ、殴ろうとしてる相手の前に飛び出すかフツー」

「…だって、あんたが殴られると思ったんだもん」

「あんなの適当に避けられたのに。あーあ、女なのに顔に傷作りやがって」

あたしの顔を覗き込む彼は、思った以上に心配している顔だった。

あたしみたいな奴に執着するような人じゃないと思ってたんだけどな。

「…俺が来ないのに焦れて自分から来たかよ」

「心配しちゃいけない?」

「そんなもん不要だろ」

心配、その言葉を鬱陶しがるように彼は顔を歪めた。

「何があったの」

「顧客に物価が高ぇと言われて無理矢理奪われそうになった、それだけだ。まあ返り討ちにしてやったからヤクも金も俺の手中だ、ざまあみろだぜ」

「怪我は?」

「してねェよ」

結局、あたしがここに来たことは彼にとっては足手まといでしかなかったのだ。

悔しさに唇を噛むと、彼は呆れたようにため息をついた。

「あのなァ、取引屋なんて危険な仕事以外の何物でもねえぞ。お前はそういう世界に足を踏み入れてんだ。俺がお前の家で受け渡ししてやってるからこれまで直接的な危険は及ばなかったってだけの話だろうよ。ま、お前が殴られたお陰で奴が怯んでくれたから早めに片付いて助かったわ」

彼に担がれて向かった先はあたしの家だった。

どうせあの大人たちは帰ってこないのだろうから、あたしがいつ誰を部屋に入れたって咎める人なんかいない。

あたしの頬の手当てをしてからベッドに座る彼を横目に、私はまたシーリングスタンプの炉を取り出して粉を炙った。

「キメても怪我人なんか抱いてやれねえんだけど」

「あたしがそのためだけにやってると思わないでよね」

憎まれ口を叩く彼に、呆れたように返しながら胸いっぱいに吸い込む。

またふわふわとし始めた意識のままベッドに潜り込み、彼の腕を引いた。

「だから、今日は」

「たまにはいいじゃん、一緒に寝るだけでもさ。付き合ってよ」

あたしと彼の関係は、傍から見たらどんな風に名づけることができるのだろう。

ただの取引屋と利用者、それだけの関係だと言うには一線を超えすぎている。

彼はあたしのことをどう思っているのだろう。

ただの危なっかしい高校生のガキ、そう思われていたとしても不思議じゃない。

でも、それだけの関係だったとしたら、何か傷つく、気がする。

彼は私の方を見ずに、なァ、と言葉を発した。

「お前、この家に執着する理由あんの」

「ないけど」

「一緒に来れば?ただし、一生日向は歩けねェから覚悟して―」

「本当!?行くっ!」

ベッドから飛び起きて食い気味に返事をすれば少し引かれた顔で見られたし、急に動いたせいで背中だって痛いけど、そんなの気にすることじゃない。

あたしはそのまま抱えられるだけの私物を持って、彼と一緒に鬱屈とした家にオサラバした。

ご丁寧にあの大人達へのサヨナラの手紙を書いて、封筒に例のシーリングスタンプでしっかりと封をして机の上に置いてきた。

あの路地裏で見上げた空はやっぱりビルに囲まれてものすごく狭かったけれど、あたしは両親からの開放感と高揚感で一杯で、そんな狭い青空すらも愛おしかった。

家を出てすぐ学校に行かなくなって、髪をバッサリ切って金髪に染めた。ピアスも開けた。

学校に来ないことで大人達が探し回っているみたいだけど、それだって気にすることじゃない。

どうせ、私の親だった人達は心配していないだろうし。

彼には背伸びしてて似合わねー、なんて笑われたけど、あたしはこれが気に入っている。

ヤクと煙草と性にまみれた日陰者。それでもあたしはこの世界で彼と生きていく。

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